『ここ』に来た当初、朱緋(あかひ)は月が嫌いだった。
夜が嫌いだった。闇が嫌いだった。陽の光が嫌いだった。朝の目覚めが、人との交わりが、流れる雲の行方が、降り続く霧雨が、微かに鼻腔を擽る花の香りが、風が運ぶ木々のざわめきが――世界を形作る、すべてのものが嫌いだった。
そしてなにより、この世界を憎んでいた。
――希瑛と初めて出会ったのは、そんなときだった。
眠れない夜が続き、樹海の中を徘徊していたある晩のこと。
伸ばした前髪の所為で視界が悪く、最初はそれが人間だとは思わなかった。もしも人の言葉を話さなかったなら、朱緋は多分、それを形の悪い樹木程度にしか認識しなかっただろう。
「……朱緋?」
「…………」
どうしてこいつは自分の名前を知っているのだろうと思った。だけど、疑問に思ったのも一瞬だけだった。
(別に、どうでもいい……)
問うのも関わるのも、正直面倒だったから。ちらりと彼を一瞥して、すっとその横を通り抜けようとした瞬間――腕を掴まれた。
「……なに?」
「お前に渡したいものがあったんだ」
「は?」
思わず眉を顰めた朱緋に、彼はただ、ちょっと待ってろ、とだけ言った。そうして、自分から掴んできた腕を簡単に離して、さっさと樹海の中に消えたのである。
本来なら、朱緋だって律儀に待つ性格ではなかったのだが、朱緋の放つ拒絶のオーラをものともしない同年代の少年が珍しかったのか、それとも単に逆らうことすら面倒だったのか。掴まれていた腕を軽く撫で、朱緋はいつものように空を仰いだ。
夜空にぽっかりと浮かぶ月。少し欠けたそれを睨み付け、ただ無為な時間を過ごす。……そうして、どれだけの時間が経ったころだろう。
「――睨み付けても、月はなくならないと思うぞ」
僅かに呆れを含んだ口調と共に、彼は再び朱緋の前に姿を現した。
月を仰いでいた視線をゆっくりと下げ、少年を見る。夜の闇の中、前髪越しではあまり定かではないが、そのとき確かに、朱緋は希瑛と視線が交わったのを感じた。
何色かもわからない瞳が僅かに和らいで、その右手が、軽い動作でなにかを投げた。コントロールよく朱緋の手元へと落ちてきたそれを思わず受け止めて、軽く眉を顰める。
「……なにこれ」
「前髪。切るか留めるかしないと目に悪いだろ?」
月光の下で鈍い光を放つそれは、極めてシンプルな作りの髪留めだった。
「いらない」
「なんで。お前の目、せっかくそんな綺麗な色をしてるんだから、隠したりしたらもったいないと思うけどな」
(……知らないから)
知らないから、そんなことが言えるのだ。この赤い瞳を持つ意味を知らないから、彼はそんなことが言える。
でも……知らないのだ。『ここ』では、誰も知らない。
投げ寄越された髪留めをぎゅっと握り締めて、朱緋は思う。
――誰も、この真紅の意味を知らない。
それが果たして自分にとっての救いなのか、正直朱緋にはわからなかったし、今でもまだよくわかっていない。
けれどその次の日から、朱緋は前髪を留めるようになった。
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