階段を上がってくる足音が聞こえる。
波間を漂うような浅い眠りは、起きようとすれば起きられただろう。だが、それでも目を開けられなかったのは、意識の端に引っ掛かったその音に慣れ親しんだ気配を感じていたからだ。
母とは違うテンポのいい軽やかな足取りが、幼稚園のときから一緒にいる幼馴染みのものだとわかっていたから。だから安城(あんじょう)千紗(ちさ)は、自分の部屋の扉が開かれてもなお、ベッドの上でまどろみに身を預けていた。
「千紗ちゃ……」
千紗が眠っていることに気付いたのだろう。扉を開けた幼馴染みは、紡ぎかけた千紗の名前を飲み込み……それでも部屋の中へと入ったようだった。
(あ……起きなきゃ……)
帰る、ではなく、入る。
幼馴染みである栗栖野(くるすの)葵(あおい)のその行動に、千紗はようやく起きることを選択肢に加えた。
だが、そんな千紗の意思に反して、その瞼はひどく重い。自分が思っていた以上に、体は睡眠を求めているということか。
いっそ、このまま眠ってしまおうか。頭の隅でもうひとりの自分がそう誘惑するのと、ゆっくりと近付いてきた気配がベッドの隣で立ち止まったのは、ほぼ同時だった。
じっ、と自分の寝顔を観察されているような気がして、睡眠欲へと傾きかけていた天秤が揺らぐ。それでも起きたくないと駄々を捏ねる本能を叱咤しようとして……違和感。
髪を撫でる指先の感触と、顔に差した影。――そして。
「――――っ!?」
唇に触れた一瞬の温もりに、今までの眠気が嘘のように吹き飛んだ。
目を見開いた先、鼻と鼻がくっつきそうなぐらい近くに、この十三年間でいやというほど見慣れた幼馴染みの顔。金茶の髪に、薄茶の瞳。……睫毛は意外と長い、などと思ってしまったのは、自覚済みの単なる現実逃避だ。
「あ、おはよう。千紗ちゃん」
急に目を開けた千紗を見てきょとんとしていた彼の顔が、一瞬遅れで笑みを浮かべる。
「な、なななななっ!」
そのおっとりとした声といい、ふんわりとした微笑みといい、近すぎる距離さえ考慮に入れなければ、葵の様子は極めていつもどおりだった。
いや、違う。待って。おかしい。混乱した頭が、異常を訴えて警報を鳴らす。
変わった様子がないなんておかしいだろう。だって――。
(だって、確かに今……)
――唇が、と。
男にしては少しばかり線の細い、優しい面差しをした葵の唇へと視線を落とした瞬間、千紗の顔は一気に茹で上がる。
「千紗ちゃん、あのね……」
「いっ、今すぐ出ていきなさいッ!!」
次の瞬間、がばりと起き上がった千沙は、問答無用で葵の追い出しにかかった。
「え? え? あの、ちょっと話を、」
「いいから! 今日はとにかくなにも言わずに帰りなさい!!」
戸惑っている葵の背中を押し、部屋の外へと追い立ててから勢いよく扉を閉める。
ばたんっ、と音を立てて閉まった扉に手を置いて、千紗は身震いした。自分の心音だけが、まるで暴走列車のように激しくなっている。
(お願いだから早く帰って……!)
祈るようにそう思いながら、扉に付いた手にぐっと力を込める。――とりあえず今だけ。せめてこの心が落ち着くまで。そうしなければ、多分千紗は葵と話をするどころか、その顔さえまともに見られないに決まっているから。
扉に隔てられた向こう側。しばらくそこに立っていた気配が、ゆっくりと階段を下りていくのを聞いて、千紗はようやく力を抜いてその場に座り込んだ。
「……なんなのよ、あれ……」
途方に暮れたような問いかけに、答えてくれる者はいなかった。
PR