――倉橋(くらはし)翔(しょう)には、記憶がない。
正確にいえば、翔の記憶には一年間の空白があるのだ。
記憶を失った日、眠りから覚めた翔は、そこが見慣れた自分の部屋ではないことにまず驚いた。
白いシーツにクリーム色の天井。枕元の壁には「倉橋翔」と書かれたプレートがはめこまれており、僅かに漂う消毒液の匂いが鼻腔を擽る。――そこが病院だと悟るのに、さほど時間はかからなかった。
でも、どうして自分はここにいるんだろう? どこか薄らぼんやりとした記憶を辿ってみても、病院のお世話になるようなことはなかったはずだ。
そう思考を巡らせているうちに看護師が来て、でも彼女は目を覚ました翔を見た瞬間、大慌てで出て行ってしまって……次に現れたのは、医者らしき白衣の女性ひとりとスーツ姿の男性がふたり。
男ふたりは翔に警察手帳を提示して、両親が殺されたこと、そしてその現場に翔が倒れていたことを告げた。――何があったのか聞かせて頂けませんかね。そう問われても、それを聞きたいのはむしろ翔のほうだった。
結局、両親殺害の現場に自分がいた事実さえ思い出せなかった翔は医者の検査を受けることとなり、約一年間の記憶の喪失を診断された。精神的ショックによるものでしょうと言われたが、それさえもどこか他人事でしかなく。
「ご機嫌如何(いかが)?」
病室に戻されてぼんやりとしていた翔のもとを訪れたのは、濡れ羽色の髪を揺らしながら微笑む美女だった。それが、刑事達と共に来た白衣の女性と同一人物だと気付くのに少々時間がかかったのは、その雰囲気が先の女医然とした慎ましやかな姿からは想像もできないような変わりようだったからである。
白衣とは対照的な黒いビジネススーツは、どこかその豊艶な姿態を強調させるような悩ましさがあり、艶(あで)やかな笑みを刻んだ唇は濡れたように赤い。――その出会いこそが、現在の上司にあたる柳(リュウ)麗莉(レイリー)との、初体面であった。
「あなたの身柄は私のほうで預かることになったわ。今すぐ退院の準備をなさい」
「……え? ちょっ、ちょっと待って下さい! いきなり現れて何を……」
「ご両親の死の真相が知りたくはないの?」
思わず戸惑いの声を上げた翔が、その一言でぴたりと固まる。――両親の死の真相。知りたくないわけがない。だって、両親は殺されたのだと言っていた。記憶の中にある二人は、他人に殺されるほど恨まれていたとは思えないし、そんなことは信じたくもない。
だが、事実両親はもうこの世にいなくて、翔だけが残った。その意味、とは?
「あなたの失われた記憶の中に、その答えがあるかもしれない。私は、その記憶を取り戻すために最善を尽くすと約束しましょう」
翔の逡巡を見て取ったのか、彼女はゆったりと誑かすように微笑みながら、囁き。
「その上で、この手を取るかどうかはあなた次第よ」
手入れの行き届いた白い手が、翔の前へと差し出された。
それが、救済のための女神の手だったのか、堕落のための悪魔の手だったのか。今でも翔にはわからないままだ。
だけどそのとき、翔は確かに選択した。彼女のその白い手に自分の手を重ねて、失われた記憶を捜すことを選んだのだ。
PR